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妻ターンで帰った豊岡 芸人を辞めた夫が再び舞台に立つまで

豊岡演劇祭で見た、家族の新しい景色

豊岡演劇祭2025のプログラム『たんしん演劇部』の幕が上がり、私は客席で胸がいっぱいになっていました。
まさか他県から連れてきた夫が、この舞台に立つなんて・・・。
地元豊岡を飛び出して東京で暮らし、そして「妻ターン」という形で帰ってきた私にとって、この光景はとても喜ばしいことでした。

妻ターンで帰ってきた私たち

私が家族を連れて地元豊岡に移住したのは、2024年5月のことでした。

進学をきっかけに東京へ出て、ボイストレーナー、歌手、MCとして活動していた私。
そんな時に出会ったのが芸人だった夫です。
それからイベントのMCで活動を共にしてきましたが、
結婚を機に私は企業に就職し、家計を支える決断をしました。
芸人という仕事は華やかに見えて、実際はとても厳しい世界だったからです。

特に事務所が「売り出したい」と考える芸人は、数えきれないほどのオーディションや打ち合わせが入り、アルバイトすらできません。
夫はまさにその状況でした。
私は「自分が支えなきゃ」と必死で働きました。

 

『世界名作劇場』のラスカルの歌のお姉さんのお仕事をさせていただいていた時。

突然訪れた転機

そんな中で双子を授かり、1年後にはコロナ禍。夫の仕事はゼロに。
私の仕事も思うようにできなくなり、何度も話し合いを重ね、夫は芸人を引退しました。

さらに数年をかけて子どもたちの未来を第一に考え、「豊岡に移住する」という決断にたどり着いたのです。

引退の日に贈った小さなエール

移住後の新しいつながり

私は豊岡に帰ってすぐ地元の会社へ就職しました。
一方で、豊岡に年に一度遊びに来る程度だった夫にとって、いきなり就職するのはハードルが高いものでした。
そんなとき、市役所の方に紹介していただき、夫は「地域おこし協力隊」として活動を始めました。

所属は豊岡スマートコミュニティ推進機構。豊岡市役所と但馬信用金庫の間に入り、まちづくりやDXの仕事をしています。
そのご縁でつながった但馬信用金庫(以下たんしん)の職員さんから誘われたのが「たんしん演劇部」でした。
この演劇部は、たんしんのベテラン職員さんが「演劇をやりたい」という思いを抱き続けていたところに、芸術文化観光専門職大学が豊岡に開学し、さらに1期生がたんしんに新卒採用され就職したことで「今なら演劇ができる」と旗揚げ。
そのタイミングで夫にも声がかかり、豊岡演劇祭に出演がきまったのです。
しかも驚くことに、そのベテラン職員さんと夫はなんと映画『キングダム』で一緒に出演していたことがあったのです。

映画での縁が豊岡で再びつながるなんて―まさに奇跡のような出会いでした。

舞台に立つ夫を見て

引退を決めてから「もう夫の舞台は見られない」と諦めていました。

かつては欠かさず観に行っていた夫の舞台も、子育てに追われる中で足を運べなくなり、やがて引退。私にとって「舞台に立つ夫」は、思い出の中の存在になっていました。

だからこそ、豊岡で再び舞台に立つ姿を目の前で見られた瞬間は胸の奥が熱くなり、嬉しさが一気に込み上げてきたのです。

父の活動をテレビの録画でしか知らなかった子どもたちに、生き生きと演じる姿を直接見せられたのも大きな喜びでした。
舞台の上で笑いをとるお父さんを、子どもたちは身を乗り出して目を輝かせながら見つめていました。時々こちらを振り返っては「すごいね」と言いたげに目を合わせ、また夢中で舞台に視線を戻す―。その姿は、私にとって何より誇らしい光景でした。
さらに親や兄家族も客席で一緒に笑い声をあげてくれていて―
「舞台を家族で共有する時間」が訪れたことに、涙が出そうになりました。

ふと周りを見渡すと、観客席には夫が豊岡で出会った友人や、仕事でお世話になっている方々の姿もありました。みんなが一緒になって笑い、惜しみない拍手を送ってくださっている。その優しさが舞台の空気全体にあふれていてました。

思えば、豊岡に来てからの夫は昔の芸人仲間がテレビに出ている姿を、心から喜びながら眺めていました。自分はもうその舞台に立つことはないと受け入れて、それでも人の活躍を応援していた。そんな夫だからこそ、この拍手と笑顔に包まれる瞬間を迎えられたことが私には何よりも「よかった」と思えるのです。

そして私は改めて感じました。

当たり前だと思っていた光景は、決して当たり前じゃない。

そこには人の温かさがあって、支えてくれる人がいて初めて成り立つものなのだと。

東京では、人との関係がどこか線を引いたまま終わってしまうことが多かったけれど、ここ豊岡では「同じ輪の仲間」として迎えてくださっているのだと実感しています。
声をかけ合い、気にかけ合い、距離の近さの中で生まれる温かさ。

それが、豊岡で暮らす一番の魅力だと感じています。

豊岡でできた友人宅の年末恒例の餅つき大会に、家族で参加させてもらいました。

迷いとの決別

最後のLIVEで長年共に活動していた芸人仲間と

正直、胸の奥にはいつも自分に対して迷いがありました。

「生きがいだった仕事を諦めさせてしまった・・・」
「もし私と結婚していなければ、もっと自由で楽しい人生を歩めたのではないか」
芸人引退後の夫にとって、芸人仲間との飲み会が唯一の楽しみだったのに、それすらも私が遠ざけてしまった。
そんな思いがこの1年間消えずにいました。

LIVE後の楽しみ、芸人仲間と朝まで打ち上げ

豊岡移住前に気心知れた仲間と送別会/モグライダーのともしげ君、トムブラウンの布川君、メカイノウエさん(豊岡出身芸人)

けれどもこの日、舞台の上で脚光を浴びる夫とその姿に笑顔で拍手を送る人たちを見て、その迷いは静かに溶けていきました。
妻ターンで連れてきたはずの夫が、今では豊岡の人たちと肩を並べ文化の真ん中に立っている。
豊岡の人たちは夫の得意なことを素直に認め、受け入れてくれました。
そのおかげで夫は自分らしくいられる場所を見つけることができたのです。

あの日の拍手を思い出すたびに、私は胸の奥から「豊岡に帰ってきてよかった」と心から思います。
そして、夫に居場所を作ってくださった豊岡の方々への感謝でいっぱいです。

 

豊岡に移住してきてくれた夫へ

最後に―

地元新潟からも、活動拠点だった東京からも遠い豊岡へ移住を決断してくれた夫に。

「豊岡を、そして豊岡の人を好きになってくれてありがとう。」

心からそう伝えたいです。

あの日の決断がつないでくれた、豊岡でのかけがえのない穏やかな時間

この記事を書いた人

松原 寛子

豊岡市出身。
東京で歌手・ボイストレーナー・MCとして活動していた頃に、お笑い芸人だった夫と出会いました。
その後、双子を出産し、都会での子育てに奮闘する中で「やっぱり自然が身近な場所で子どもを育てたい」と思うように。

2024年5月、家族で「妻ターン」として豊岡へ帰郷。
久しぶりの地元での暮らしは、懐かしさと新しい発見の連続です。

このコラムでは、都会と豊岡の子育て環境の違いや、家族と過ごす中で感じた“豊岡での暮らしの豊かさ”を、等身大の言葉で綴っていきます。

誰かの背中をそっと押せるような、そんな記事を目指していきたいです。

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