城崎と竹野を結ぶ3本の“道”
豊岡市は、いわゆる「平成の大合併」で旧豊岡市と城崎・竹野など5つの町が合併して2005年に誕生しました。それ以前、城崎町と竹野町は、同じ城崎郡に属するいわゆる「隣町」でした。私が小学生だった時代(もう半世紀前ですが)には、両地区の7つの小学校(城崎1校・竹野6校)の児童が合同で行う行事(野外活動など)がおこなわれるなど、以前から交流があった地域です。しかし、実は地形的にみると、城崎と竹野の間には火成岩による固い地層が海岸部から来日岳に至るまでつながっており、この両地区の往来は容易ではありませんでした。

城崎から竹野にかけての地質図(地質図naviより)
今回は、城崎と竹野を結ぶ3本の“道”、すなわち「鋳物師戻峠」「JR山陰本線」「但馬海岸道路」の歴史と、人々の暮らしについて調べてみました。
①鋳物師戻峠
城崎温泉の中心を通る大谿川沿いの通りを川上に辿り、城崎国際アートセンターからさらに奥に入ると山道へ続き、そのまま進むと竹野に出ます。

城崎国際アートセンターの前には「竹野浜海水浴場 8km」の標識が。手前の「大型車はすれ違い困難につき通行止」という標識も気になりますが…
この城崎と竹野の間の峠が「鋳物師戻(いもじもどし)峠」と呼ばれる峠です。1986年(昭和61年)に鋳物師戻トンネルを通る道路が全面的に開通し、城崎温泉と竹野地区を結ぶメインルートとして多くの車が行き交うようになりました。
ただ、実はトンネル自体は1975年に完成していました。その1~2年後、家族で車に乗っていて、何を思ったか父がこの道を通ってみようと言い出しました。まだ小学生だった私の記憶では、舗装されていない道はかなり怪しい雰囲気で、引き返すにもUターンする場所もなく、父が「前進あるのみ!」とか言いながら進んでいくとトンネルができていて、なんとか無事竹野に出ることができました。助手席の母は怒っていたような、苦笑していたような…
このトンネルができる以前は、城崎と竹野の往来には旧道で厳しい山を越えるしかありませんでした。それでもJR山陰本線が1911年(明治44年)に開通する以前は、これが唯一の「道」だったのです。

この峠の頂上付近に「大岩」があります。高さ15mの岩の上に、いまにも落ちそうな5mほどの岩が乗っていて、これが「鋳物師戻しの大岩」と呼ばれ、峠の名の由来となっているとされます。地元に伝わる伝承によると、734年(天平6年)4月にこの地を大地震が襲い、その時たまたま荒金を背負ってこの峠を通ろうとした鋳物師(金物を直す職人)がゆらゆら揺れる大岩を見て恐ろしくなり後戻りした。それからこの岩を「鋳物師戻しの大岩」、峠を「鋳物師戻峠」と呼ぶようになったといいます。(「但馬情報特急」より)

鋳物師戻しの大岩(「但馬情報特急」より)
今から約1300年前からずっと、この「落ちそうで落ちない」状態を保っているのも不思議ですし、そもそもどうやって岩の上に岩が乗っかってしまったのかも不思議です。この岩は「奇岩」として「但馬のお宝100選」にも選ばれています。現在は竹野側からは約1時間の遊歩道を歩くと大岩の下まで歩けるようになっていますが、そこから城崎側に抜ける道は荒れ放題で通行困難だとのこと。私も一度現地を訪ねてみたいと思っています。
それにしても、どうやってこんな岩ができたのでしょうか。あくまで私の推測ですが「もともとは上の岩と下の岩は別の地層で、その間に別の軟弱な地層があったが、これが長年の間に侵食されて失われ、あたかも岩の上に岩を乗せたような形になった」のではないかと考えています。
②JR山陰本線
現在の山陰本線を建設するにあたっては、香住~浜坂間で「桃観トンネル」「余部鉄橋」という日本鉄道史に刻まれる大工事があったため、香住以東を「山陰東線」・香住以西を「山陰西線」として両側から工事が進められ、山陰東線の城崎~香住間は1911年(明治44年)10月25日に開通しました。実は山陰東線で最も工事が難航した区間が城崎~竹野間でした。鋳物師戻峠のやや南側の山間部を貫く芦谷トンネルは1859mと、香住以東では最長のトンネルとなっています。建設費用も当時の金額で52万9000円余りに上り、これも山陰東線では最高額でした。

芦谷トンネルに入る下り特急「はまかぜ」
芦谷トンネルは1907年(明治40年)8月に東西両側から掘削に着手し、トンネルの貫通までに半年余りかかりました。ここの地質は東半分は花崗岩および玄武岩からなる固い地層で、いっぽう西半分は粘板岩で掘削は容易ではありませんでしたが、すべて手掘りで工事が行われたといいます。工事中はトンネル上部の渓流からの湧水が多く、さらに春には融雪で岩層に緩みをきたし約160㎥の崩落を起こすなどのトラブルもありましたが、概ね順調に工事は進み、起工以来3年にして工事は完成しました。工事にあたって資材の運搬には、城崎側では湯島の峡谷に軽便線を敷設し、竹野側では竹野浜から軽便馬車鉄道を敷設しておこなったということです。
このトンネル工事以上に難航したのが、桃島池の埋め立て工事でした。今も城崎温泉駅から下り列車に乗ると、すぐに短いトンネルを通り、すぐ右手に池が見えます。これが桃島池です。この池の一部を埋め立てて線路を敷いたのですが、度重なる沈下で非常に難航したと記録されています。

左に見える桃島池は昭和の時代にさらに埋め立てられ、城崎振興局などが建つ
鉄道開通以後、竹野~城崎の往来の主流は鉄道となりました。豊岡方面への通勤・通学に加え、竹野港で獲れた魚の行商が昭和40年代まで盛んに行われたほか、かつては木材・鉱石などの貨物輸送にも鉄道が使われていました。

③但馬海岸道路
但馬海岸道路は、城崎マリンワールドのある豊岡市瀬戸から海沿いに竹野までを結ぶ道です。かつては「但馬海岸有料道路」という有料道路で、1995年に無料開放されましたが、今でも地元の人には「有料道路」といった方が通りがいいです。海岸線に沿って走る絶景が楽しめる道ですが、裏を返せば極めて急な崖と海の間に作られた道路だともいえます。

海岸道路から見える日本海
この道の途中には「宇日」「田久日」という集落があります。いずれも「平家の落人伝説」が残る小さな集落で、耕作可能な土地はほんのわずかしかなく、他の集落に行くには舟で行くか厳しい山道を歩くしかない、まさに「陸の孤島」ともいえる寒村でした。この「厳しい山道」というのは、日本海を真下に望む急斜面に沿って曲がりくねった道が続き、道幅は1m足らず。悪天候の日には横殴りの激しい風雨に吹き付けられながら、道を踏みはずせば数十メートル下の海に転落するという過酷なルートでした。この地区に生まれ育った子どもたちは、こんな道を1時間半もかけて歩いて竹野小学校に通っていたといいます。これではとうてい勉強どころではありません。
高度経済成長期に差し掛かろうとしていた1954年(昭和29年)、宇日・田久日両地区は役員会議で海岸道路建設を呼びかけることを決議しました。住民の思いは当時の竹野町長や兵庫県を動かし、1957年(昭和32年)に道路は着工されたのですが、70度の急斜面という断崖絶壁での工事はあまりに危険で、財政難もあって工事は中断を余儀なくされてしまいました。地元の人々の切実な願いは、打ち砕かれてしまったのです。
そんな折、ある新聞記事が掲載されました。それは、豊岡市と京都府久美浜町(現・京丹後市)の府県境にある三原峠の道路改良工事に自衛隊が尽力したという記事でした。これを読んだ当時の兵庫県知事・阪本勝氏は「これしかない」と陸上自衛隊に道路整備を要請。知事と住民の熱意はついに自衛隊に届き、申し出が受理されて1960年(昭和35年)7月に工事が着工されたのです。大型重機は海からの輸送、自衛隊員たちも海から上陸して過酷な工事の幕が開きました。硬い岩盤にダイナマイトで亀裂を入れ、人力によって岩を削り、岩石をブルドーザーで除去する作業はまさに命がけで、「足下の岩が崩れ命綱で宙吊りになった」「巨大な落石が隊員をかすめて落ちていった」など、工事の過酷さを物語るエピソードが残っています。
難工事の末、1962年(昭和37年)9月に道路は開通。その後兵庫県による舗装などの整備を経て、1965年(昭和40年)7月1日に但馬海岸有料道路として供用開始されました。

巨大な岩に細い線を刻むように走る道路(黄色矢印)
この道路に東側から入ってしばらくすると、阪本勝・元知事の揮毫による「北但海岸道路開通碑」がひっそりと建っています。そこにはこう刻まれています(原文ママ)。
豊岡市日和山より竹野町竹野浜に至るこの海岸道路開通工事は、昭和35年7月から開始された。陸上自衛隊第3施設大隊(伊丹)の隊員延べ25800人の献身的作業により建設され昭和37年9月完成したものである。
ここに、作業隊員の辛苦を永遠に感謝するため、この日を建立する。
昭和45年7月
豊岡市
竹野町

一方、竹野浜海水浴場には「はぐくみの碑」という石碑が建てられています。道路工事の陣頭指揮を執った自衛隊の元大隊長・西村喬二氏が、削り取られた岩肌に墨で書いたとされる句が刻まれています。
「北風や 心志て吹け 子らの為」

現在私たちが当たり前のように使っている道路や鉄道にも、昔の人々の熱い思いや歴史が刻まれています。今回この記事を書くにあたってあらためてそれぞれの道をたどってみましたが、「美しい景色」「険しい山道」がいつもとは違ったものに映りました。皆さんもぜひ、景色を楽しむとともにそこに住む人々の暮らしに思いを馳せてみていただければと思います。
【参考文献】
・但馬情報特急「鋳物師戻峠の大岩」(2015.5.26)
・但馬の情報誌「T2」VOL.62「挑戦者たち16・但馬海岸道路」(2007.4.)
・福知山鉄道管理局史(1972)