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城崎温泉の男たちが燃える!城崎秋まつり

こんにちは。市民ライターの田上敦士です。

私の生まれ育った豊岡市の城崎温泉では、毎年10月14日・15日に「秋まつり」が行われます。氏神である四所神社の、五穀豊穣を願い温泉に感謝する秋の祭礼で、絢爛豪華な山車(だんじり)が激しくセリ合う、但馬有数のお祭りです。

温泉街を進むだんじり《写真:井垣真紀》

この祭りは、城崎町の中心部(旧湯島村)を、四所神社を境に上(かみ)部と中(なか)部・下(しも)部に分け、この両者のだんじりが争う形で繰り広げられます。

上部・中部・下部の概略(「城崎温泉観光協会・城崎温泉そぞろ歩きMAP」を基に作成)

「温泉街の繁栄を祈るために町内を回る四所神社の神輿にお供する上部のだんじり(「台」と呼ばれます)と、中下部のだんじりの間で『セリ』と呼ばれる激しいぶつかり合いが起きる」というのが祭りの概略です。2日間にわたって街のあちこちでセリが繰り広げられた末、15日夕方の「一の湯」前のセリで祭りはクライマックスを迎えます。

※去年(2022年)の祭りの詳しい模様はこちらから

祭りのクライマックス、一の湯前の「セリ」《写真:井垣真紀》

毎年多くの見物客が訪れますが、実はこの祭りは決して観光目的のイベントではなく、町の人たち自身のためのものなのです。近隣の町では秋祭りは週末に行われるところが多くなっていますが、城崎では昔から変わらず曜日に関係なく「10月14日・15日」の開催です。城崎の男たちにとっては、祭りの日は仕事を休むのが当たり前、さらに言えば、城崎温泉にとって何よりも大切な「お客様」よりも唯一優先される存在、それが「秋まつり」なのです。

私は昨年(2022年)、高校時代以来実に41年ぶりにこの秋まつりに参加しました。(故郷に戻って以来2年間はコロナ禍のためだんじりの運行は中止されていたのです)実際に参加してあらためて「この祭りがあるからこそ、今の城崎温泉がある」と感じました。現在大学院で地域社会について学んでいる私の目に映った「城崎温泉を支える秋祭りの姿」を少しだけお伝えしたいと思います。

41年ぶりに祭りの装束を着た筆者

城崎温泉の秋まつりとは

この秋まつりの起源については、はっきりしたことは分かっていません。「中世以来続いている」と言われていますが、記録が残っているのは江戸時代以降です。城崎町史によれば、神輿が氏子により寄進されたのは享保年間の1724年、その後1760年代にそれぞれのだんじりがつくられたとの記録が残っています。「城崎町史」によれば当時から城崎温泉は「但馬の湯」として広く名を知られており、京都・大阪の文化とも交流を持っていたためか、上部のだんじりには京風の「漆塗りの美麗な柱」「唐獅子牡丹を刺繍した幕」が、中下部のだんじりには大阪風の「唐破風の屋根」などがしつらえられていて、それ自体が文化財と言える美しいものです。

豪華絢爛なだんじり《写真:井垣真紀》

祭りを支える「連中」

祭りは、上部・中部・下部それぞれに組織される「連中」という世代別集団によって運営されます。それぞれの地区で、ほぼ3年~5年ほどの世代で「連中」を組み、年代に従って「若衆」「執頭」「助」「警護」といった役割を果たしています。

現在の上部の構成 ※中下部では若干異なります

「執頭(しっとう)」は30歳前後で、祭りの実務を取り仕切る、いわば実行委員的な役割を果たします。執頭が代変わりすると「後見(こうけん)」という立場で執頭をサポートし、さらに年を重ねると「助(すけ)」というポジションにつきます。50歳代半ば~後半で「警護(けいご)」という肩書になると、その名の通りだんじりの周囲で事故や危険を回避する役割となり、服装も「担ぎ手」然としたものから一変して黒の筒袖・袴姿に変わります。

「台」の巡行《写真:井垣真紀》

「連中」は、本来は「祭りの運営のための年代別グループ」ですが、コロナ以前は(連中によっては今でも)毎月例会を開き、年に一度は旅行に行くなど、その存在感はきわめて大きなものでした。そのつながりは日常の冠婚葬祭でも発揮され、葬祭業者がまだ一般的ではなかった昭和の時代には「身内の葬儀はすべて連中で取り仕切る」のが普通で、自分の家族でなくても「連中の誰某の親父さんが亡くなったから、仕事を休んでお通夜や葬儀を手伝う」といったことは、城崎では当たり前の会話でした。

祭りでは連中ごとに決まった色の装束を着る《写真:井垣真紀》

また、祭りの運営においては年功序列が徹底されていて、大旅館の若旦那であろうと大きなお店の経営者であろうと一切関係ない、祭りの中での上下関係が存在しています。実際に祭りを取り仕切る「執頭」は30歳前後の年代であり、何を行うにしても運営の後見人にあたる「警護頭」をはじめとする年長の連中すべてに頭を下げてお願いして回り了承を得るシステムとなっています。今の時代では珍しいほどの「体育会的上下関係」に正直驚いたのですが、実際に祭りが始まると、ものすごい重さのだんじりを担いでぶつかり合うのですから、その指揮にあたる執頭の動きに緩慢なところがあると命に関わる重大な事故にもつながりかねないので、厳しさにも納得しました。このように厳しい指導を受ける「執頭」を経験することで、城崎の若者は「一人前の男」として地域社会から認められると言ってもいいでしょう。

社会学的な視点で祭りを見ると…

あえて少し社会学的な考察をすると、この「連中」を通じた濃い人間関係が、「まち全体が一つのお宿」と称し「共存共栄」をモットーとする城崎温泉のまちづくりの骨格をなしているのです。このように古くからのしきたりに基づく社会的集団が現代まで存在し、「祭礼」という本来の目的を超えて、日常生活やひいては「まちづくり」にまでその影響が及んでいるのは珍しいケースといえますが、そこには城崎における「温泉」という地域の共有財の存在が大きいと私は考えています。城崎に住む人にとって温泉は、観光産業に欠かせない存在であるだけでなく、日常生活の上でも重要な「入浴の場」「地域社会の社交の場」なのです。大切な「地域の共有財」である温泉を守るために、古くからの地域社会のルールやしきたりが存在し続けているのだと思います。

《写真:井垣真紀》

ただ、そんな理屈を抜きにして、城崎の男たち(の多く)は、単に祭りが大好きなのです。祭りのクライマックスとなる一の湯前のセリの出来によって、城崎の男たちは「今年はええ祭りだった」「今年は下が(上が)あんな無茶をするからワヤだった」などと語り合い、酒の肴とするのです。秋祭りが開催されなかった2020年・21年には「祭りのDVDを見て泣いた」といった話を何人もの城崎の男たちから聞きました。秋祭りは城崎の住民にとっての精神的支柱になっているとさえ言えるのです。

《写真:井垣真紀》

なお、今年(2023年)の秋祭りは土曜・日曜にあたっています。観光のための祭りであれば歓迎すべき日程なのですが、町の人々は複雑な表情です。旅館や商店の働き手(男性)は祭りにかかりきりになって人手の足りない状態でたくさんのお客様をお迎えすることになるからで、祭りの2日間は予約を受け付けない旅館もあります。さらに街の中心道路はだんじりのために長時間通行止めとなり、自家用車で訪れた観光客からはクレームも多いため「祭りが週末にかかるとややこしい」というのが町民の本音なのです。

もちろん、豪華絢爛なだんじりのぶつかり合いは間近で見ると迫力満点ですし、いつもと違うこの時期だけの城崎温泉をたくさんのお客様に観ていただきたいという思いもあります。ただ、この時期に城崎にお越しになる際には、できるだけ公共交通機関を利用してお越しいただければと思います。
※祭り当日の交通規制の詳細は城崎温泉観光協会のHPから

この記事を書いた人

田上 敦士

城崎生まれ。大学進学で上京し、大阪のテレビ局に就職して30年余り。早期退職して2020年に但馬に帰ってきました。
合同会社TAGネット 代表(といっても、社員は私だけです)

http://www.tag-net.work

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