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移住者に聞く・youはどうして豊岡に?④11代目平尾源太夫さん

こんにちは。市民ライターの田上敦士です。

豊岡市森尾に、平尾家住宅という古いお屋敷があります。
平尾家は江戸時代に大庄屋を務めた但馬屈指の大地主で、約4,000平方メートルの敷地内には大小約20もの建物が点在しています(但馬検定テキストブック「ザ・たじま」より)。母屋はもちろん、蔵や塀、門など40以上の建造物が国の登録有形文化財となっています。

私も以前、大学院のフィールドワークとしてこの邸宅を見学させていただいたのですが、とにかくその広さと立派な造りにまず驚きました。
敷地内には住居とされていた建物だけでなく「米蔵」「道具蔵」「陶器蔵」など蔵もいくつもあり、敷地内には川が流れているなど、本当に広大なのです。門もいくつもあり、その中には「御成門」という、貴人(代官など)を迎える時だけに使われる門もあります。この門の目の前はお堀のように川が流れていて「門が使われるときには臨時の橋がかけられる」というスケールの大きな話にただただ驚くばかり。

もちろん建物だけでなく、書や絵画などの貴重な美術品や資料も数多く残されていて、その全容はいまだ判然としていないのだとか…

沢庵和尚の書と伝えられる掛け軸

この家に住むのが、11代目平尾源太夫こと平尾明洋さん。穏やかな笑顔は「大庄屋の末裔」という言葉が似合う平尾さんですが、10年前にここに戻って来られる前は「大庄屋」とは対極にあるといってもいい最先端技術の世界で活躍されていた方なんです。そのギャップの大きさや、伝統ある旧家を守る宿命のもとに生まれた方の思いを伺いたくて、平尾さんにインタビューをお願いしました。久々にお送りするシリーズ企画「移住者に聞く・youはどうして豊岡に?」の第4回は、11代目平尾源太夫さんの登場です。

平尾さんはこの家で生まれ、当時銀行員だった父・10代目平尾源太夫さん(のちに豊岡市長)の転勤に伴って3歳の時に阪神間に引っ越されました。転居後も毎年夏休みやお正月は祖父母の住むこの家で過ごされたということで、幼いころの思い出がたくさん詰まった家であることは間違いないそうです。その後平尾さんは灘高校から東京大学工学部に進んで航空工学を学び、アメリカ留学を経て大学院の博士課程の途中で航空部品としても使われるベアリングを作る会社「日本ミネチュアベアリング株式会社(現・ミネベアミツミ株式会社)」に入社されました。会社はその後大きく成長して、現在は社員8万5千人、年間売上1兆円を超える大企業になっています(2023年現在)。この会社で専務取締役技術本部長という技術畑のトップのポジションを務めていた平尾さんが、一線を退いて豊岡に戻って来たのは、10年前の2013年でした。

「理由はいくつかあったのですが、一番大きかったのは母親のことでしたね。その3年前に父が亡くなり、80代後半の母が一人暮らしになりました。身の回りの世話をしてくれる人はいたんですが、一人息子としてはこのままほうってはおけないと思ったんです。母と7年ほど一緒にこの家で暮らして、3年前に亡くなりました。

帰ってきて最初の頃は、母が元気なうちにと思って頑張って家を修繕したり改装したりしていました。大工仕事は専門ではないですが図面は描けるので、家にしても塀にしても図面を描いて直していきました。子どもの頃から、いろいろなものを分解したりまた組み立て直したりするのが好きだったんですね。庭の手入れなんかも、父よりは私の方が向いていたと思いますよ(笑)。

この家を継ぐとか守るとかいう意識も、それはもちろんありました。ただ、私の世代の価値観でいうと『使命感』といった言葉よりはもうちょっと気楽に『自分の力の及ぶ範囲で、できるだけのことはやろう』といった気持ちですね。」

豊岡に戻ってくるにあたり、大学時代に知り合ったという神戸生まれの奥さまや、お子さんの反応はどうだったんでしょうか。

「妻は、いつかは豊岡に帰ることになるというのは薄々は思っていたんでしょうね。特に反対したということはなかったです。もともと会社勤めをしていた時代にも研究拠点のある長野や静岡での生活が長かったので、クルマ中心の生活にはあまり抵抗はなかったと思います。ただ、妻はあまり古いものには興味がないので、家の修理などは私が一人でやっていますが…最近では但馬文教府で開かれている『みてやま学園』という生涯学習の場で同世代の知り合いが増えたみたいですね。」

「子どもは長女・次女・長男と3人いて、私と同じように夏休みはこの豊岡で過ごしていました。順当にいけばいま30代後半の長男がこの家を継ぐ形になるんですが、時代とともに考え方も変わっていますからね。私からは『継いでくれ』とも『継がなくていい』とも言っていません。私たち住む人間よりも、家の命の方がはるかに長いですから、先のことはどうなるか分からないというのが正直なところですね。守るためには、そのための仕組みをきちんと作らないといけないと思いますし、それは個人の力ではなかなか難しいんじゃないでしょうか。」

平尾さんがこの家に戻ってきて10年。あらためてこの家での生活はいかがですか。

「この家に関心を持ってくださる方も多くいらっしゃって、大学院の先生や学生さん、その他にもいろんな方とご縁をいただけています。いろんな分野の方とお話しできるのは面白いですね。

家の見学については、基本的には非公開としていますが、地域の貴重な財産ではあるので私に可能な範囲で対応させてもらっています。特に、地元の神美小学校の子どもたちは毎年2年生の子どもたちが見学に来られます。アニメで見るような世界が現実に出てきた、といった感覚なんでしょうか、『住んでみたい』という感想が多いですね。井戸にも興味津々ですし、『庭に小人が住んでいそう』なんて言ってる子どもさんもいますよ。
子どもたちには家の見学以外に、いずれ技術者としての経験を生かして工作教室を開いてあげたいと思っています。また、今は森尾区の区長も務めていて、けっこう忙しくしていますよ。

あともう一つ、ここでしかできない『やりたいこと』もあるんです。」

そう言うと平尾さんは、敷地の中にある建物の一つに案内してくれました。その中にあったのは、なんとグライダーでした。

「大学時代、航空工学を勉強すると同時に、航空部に入って空を飛んでいたんです。エンジンのついた小型機にも乗っていましたが、私はグライダーで風を読みながら、雲を見ながら飛ぶのが好きなんです。こんなグライダーのオーバーホールなんて、都会ではできません。これだけのスペースがある静かな環境でグライダーの整備をしながら暮らせるというのも、豊岡に戻ってきた理由の一つなんですよ。」

楽しそうに話す平尾さんは、「大庄屋」でもなければ「技術者・研究者」でもなく、ただ空に憧れる少年のような笑顔を浮かべていらっしゃいました。その表情を見ていると、お話を伺う前に私が想像していた「家を守るという宿命の重み」とか「最先端技術の業界と田舎の旧家暮らしのギャップ」とかいったことが、いかに私の勝手な思い込みだったかということを痛感しました。平尾さんにとってはすべては自然につながっていて、それらを追い風にして人生を楽しんでいく、まさにグライダーのような平尾さんの生き方から多くのことを学ばせてもらいました。

この記事を書いた人

田上 敦士

城崎生まれ。大学進学で上京し、大阪のテレビ局に就職して30年余り。早期退職して2020年に但馬に帰ってきました。
合同会社TAGネット 代表(といっても、社員は私だけです)

http://www.tag-net.work

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